世間では日常的に犯罪が起きている。
テレビやインターネットのニュースでは、日常的に多くの犯罪が取り上げられ、報道されている。
それらの犯罪は、ほとんどが以下のどれかだ。
殺人事件。
強盗。
詐欺。
性犯罪。
もっとも多発していると思われる犯罪、「窃盗」は、まず取り上げられない。
報道にはプライオリティが設けられているのだ。
なぜか?
理由は実は簡単である。
「窃盗」は、もっとも検挙しにくい犯罪だからなのだ。
つまり、報道しても完結しない。
犯人が挙がらない。
殺人事件、強盗、詐欺、性犯罪は、犯人が捕まえやすいのである。
アシが付きやすい犯罪なのだ。
それに比べると、「窃盗」ほど犯人を捕まえるのが難しい犯罪は無い。
だから、そんなもの報道したって未消化に終わってしまうのである。
言い換えれば、犯罪のなかで最も確実で捕まりにくいのは窃盗だと言える。
証拠を残しにくいし、現行犯でないと検挙できない。
犯罪者になりたい方は、まず窃盗から入門してはどうか。
自殺とは、自分の生を自ら終熄させる行為だ。
なぜ世間的に、自殺は良くない、と言われるのか、その理由を考えるに、他者との関係性を一方的に断ち切る行為だから、という回答が最も妥当だと思われる。
他者との関係を一方的に断ち切る。
昨日まで生きていた知人が、今日になって突然、自らの意志で死ぬ。
その行為は、「知人」という自分の世界の登場人物の一人を、理不尽な形でもぎ取られるようなものだ。
もしその知人が自分のところにやってきて、「明日死ぬけどいいかい?」と、自分に許可を求めてきたとする。
知人の説得の甲斐もあり、自分は、その知人が死ぬことを許したとしよう。
そうなれば、その人がその後本当に自殺したとしても、自分は(悲しいと思いこそすれ)知人の自殺を「良くないこと」と判断はしないはずだ。
つまり、自殺はただの「迷惑行為」に過ぎない。
犯罪ではない。ただ道徳的に良くない、と言われているに過ぎない。
「図書館では静かにすべきだ」と言われるのと同程度の価値判断なのだ。
遺書は、その迷惑行為に対する弁明書、あるいは始末書の役割を果たしているに過ぎない。
私が幼い頃、テレビで『北斗の拳』を放映していた。
しかし、私の通っていた小学校では、教育上よろしくないという理由で、『北斗の拳』を観ることを禁止していた。
深夜まで起きていれば、親が叱る。
まして深夜に外出することは補導の対象となる。
長ズボンを履いてはいけない時期もあった。
革靴を履いてはいけない時期もあった。
ゲームセンタや喫茶店は、登下校時に寄ってはいけなかった。
放課後でも、行くことはあまり良くは思われなかった。
子供ながらに、「大人の都合」だと思ったものだ。
「R−15」とか「18禁」という概念がある。
これは、15歳未満は観てはいけない、もしくは18歳未満は観てはいけない映像のことだ。
教育上よろしくないから、この年齢までは駄目ということだろう。
しかし子供は好奇心の固まりである。
禁止されれば、なんとかして観ようとするのは当然である。
そして、子供はこうも思う。
「これは、大人の愉しみなのだ」
大人の愉しみの最たるもの。
それはセックスだ。
法律的・道徳的に、子供はセックスすることを禁じられている。
しかし、18歳を超えれば、「さすがに分別がつくので」、セックスが晴れて解禁となるのだ。
しかし実情はどうか。
18歳という枷をおとなしく守る人など、殆どいない。
煙草や酒に始まり、賭博をし、セックスをする。
煙草はようやく今年から未成年が買えなくなるが、本気で取り締まろうと思わない限り、今後も枷はあって無いようなものだろう。
しかも道徳的に禁じられているから、子供は大人に言わない。
実情がつかみにくいのだ。
子供でも、何でも自由にすればいい。
煙草を吸う。
酒を飲む。
セックスをする。
その結果、損害を被っても、それは自分の責任なのである。
今は、これらのことで取り返しがつかなくなることなど無い。
煙草も酒も矯正できる。
堕胎手術もできる。
一回経験してみないと、わからないことはある。
だから、子供でもセックスすれば良いのだ。
人を殺してもいい。
正当防衛とは、そういうことだ。
ただ、同族を殺すのは心が痛む。
なぜ心が痛むのか。
遺伝的なものか、道徳的なものか。
遺伝的なものだと信じたい。
人のために何かをすることは良いことだ。
ただし、自分にとって。
本当に些細な、小さな、だけど良いことをしたときですら、「自分は良いことをした」という爽快感を得ることができる。
自分に見返りの全くないことは、する意味がない。
人を裏切っても良い。
そのほうが、自分にとって好都合な場合は。
ベストなのは、裏切ったと相手に思わせないように裏切ること。
従って、自分を信じてくれている人ほど、裏切るのに都合が良い。
人をだましても良い。
多くの人は、日常的に誰かをだましている。
ただ、だます方とだまされる方の両方が、合意しているので、だましたと認識されにくいだけだ。
一番だましやすい相手は自分である。
恋愛は、ほとんどの場合、自分をだましている。